2020年09月17日

ふぅ……

朝、何時かな。5時には目が覚めて、
久々の朝焼け撮って、

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6時からは夜勤明けの弟とライン。


10年前の今日は、
こんなに穏やかな朝じゃなかった。まだまだ真夏で、とても暑かった。

その年はひどい酷暑で、

「この夏を生き延びたんだから長生きできるよ」

亡くなる前日、ふらふらで苦しいママちゃんにそう言うと、苦しいのに嬉しそうな顔をした。


10年前のブログ記事を読み返し、
今朝またわんわんと泣いた訳だが、
伝えていない内容もあってね。
ちょっと書きます。


ママちゃんは、私が高校3年生の秋に子宮癌の手術をし、退院してすぐ膠原病を発症した。
膠原病の強皮症ってヤツで、体の外側・内側 (内臓) が少しずつ硬くなる。
進行は遅かったが、
5年も経たずに肺線維症にもなった。

コロナに罹患した方々のように、肺が繊維状になり、ポンプの役割をしない = 酸素が取り込めず苦しい。
在宅酸素療法といって、
常に鼻から酸素を注入する生活となった。
出掛ける時は酸素ボンベを持って、いつも管に繋がれて。

山登りやハイキングが好きな人だったので、
運命って本当に残酷。
神様がもしいるのなら、後頭部に飛び蹴りしたいくらいだ。


酸欠でいつも苦しくて、心臓は肥大化し、脳も酸欠が原因で萎縮し、軽く認知症に。


亡くなる数年前、
やたら肺炎で入院していて、病院で検査をした。

ひどい嚥下障害だった。 

普通、気管支にモノが入るとむせるよね。むせて咳出て、異物を追い出す訳だが、
ママちゃんの場合、気管支に入ったことに気づかない。
それじゃ肺炎になる訳だ。

医師は胃ろうを提案し、じいさんは迷った。
胃ろうにしたら栄養缶詰だかを胃に直接流し込む。細菌が入らないよう、注意が必要。
それにじいさんは頭を抱えたのだが、その時ママちゃん、

「おはぎが食べたい」

って泣いたんだ。

山登りもダメ、食いしん坊なのに食事も楽しめない。
そんな生き地獄ってある?

胃ろうはやめよう!
おはぎ食べたいなら私が食べさせてあげる!
食べられるようにしてあげる!

そう言って胃ろうはやめた。

飲み物にはとろみをつけて、ご飯はゆっくりゆっくり食べてもらって、
それでもどうしても肺炎は起こしてしまう。

亡くなる4ヶ月くらい前、
また肺炎で入院した。
軽く認知症があったのもあり、私も病室にベッドを用意してもらったのだが、
それでも夜になったら錯乱してしまい、
押し問答の挙げ句、かなり強引に退院してきた。
タクシーで自宅に向かう中、ママちゃんはにこにこ笑顔で、

「あたしもう入院したくない」
 
って言った。

分かったよ、入院はしない。私がさせない。大丈夫、安心して。


そんな訳だから、
ママちゃんは自宅で亡くなった。

容態がおかしくなったのは15日・16日の2日間で、
14日はデイサービスで久しぶりに入浴し、洗髪もし、ご機嫌で帰ってきた。
嬉しそうに「カラオケ3曲も歌っちゃった!」と報告してくれた。

たまに緊急事態になりながらも、デイサービスに通って、ちょっとボケてても楽しげで、
そんな日々が続くなら、
私はどんな努力も苦じゃなかったのに。


最後は
「ありがとう」「ありがとう」、
声にならなくても口が動く、「ありがとう」って。

見た目と違い気が強く、「ありがとう」も「ごめんなさい」も言えなかったママちゃんが、
最後に一生分の「ありがとう」と「ごめんなさい」を言って旅立った。

私には「ありがとう」、
じいさんには「ごめんなさい」。


寝ずに2日、ママちゃんに『気』を送り続け、
朝方5時、
私の部屋で寝てもらっていたじいさんが起きてきて、倒れ込むように眠りに入ったのだが、
経験したことないくらいの強烈な金縛りにあい、命からがら目覚めると、
その時ママちゃんはもう硬直してた。
じいさんは呑気に庭いじりしてた。

慌ててじいさんを呼び、救急車を呼んでもらい、私は心臓マッサージ。
かたまってるママちゃんを、必死に。

救急隊が来て、

「これはもう私たちの管轄じゃないです、もう仏様です」

その言葉に、
何やら叫びながら泣いた。部屋の隅にまるまり、嘘だ!って狂ったように泣く私に、
救急隊員が心電図を見せてくれた。

「亡くなった直後は少しは動きます。お母さんのは一直線のまま」

ね? って。

困った顔をしたじいさんが、「もういいよ」って、寂しそうに言って、
あの顔は今でも忘れられない。


刑事の事情聴取があり、
すべて こと細かくノートに記録していた私が応じ、
そのうち夜勤明けの弟が帰ってきて、
ママちゃんは検死のため、亀有警察に運ばれ、
それからじいさんと弟が北枕に布団を敷いた。
私はぼんやり階段に座ってた。


若い頃から病気だらけだったママちゃん。
ママちゃんという一輪の花が枯れてしまわぬよう、みんなで大事に大事にしてきた。


今でもママちゃんの夢を見る。
お薬飲んだっけ? 飲み物にとろみつけたっけ?
そう焦りながらママちゃんを探す時、

「あの花のような人」

って思う。

花のようなお母さんだった。


17日は、長い1日だった。
セレモニーホールの冷凍室に入り、打ち合わせをし、帰りにすき家でご飯を食べ。

弟はまったく記憶がないらしい。
私は、すき家のカレーが甘ちっこかったことまで、何故か覚えている。
打ち合わせで、
藤色が好きだったから額縁は藤色にしてくれ、とか、
食いしん坊だったからフルーツ盛りも欲しい、とか、
じいさんと弟が「いらない」と言った戒名も、
私がワガママ言って絶対欲しい!って言った。

セレモニーホール、すき家、
そこから実家に戻る車の中、
弟が運転席、じいさんが助手席、
私は後部座席にいた。
十字路の一角は畑で、今でも空が大きく見えるのだが、
そこできれいな夕焼けを見上げた時、
その空に大きくママちゃんを見た。

いつもの、ハイキングに出掛ける時の赤いリュックを背負い、満面の笑顔で

「いってきまーす!」

って。

ああ、
ママちゃんはハイキングに出掛けたんだ。
酸素ボンベも管もない自由な姿で、大好きなハイキングに出掛けたんだ。


散々泣いた日、最後にあの空を見て、
良かったね、って思った。
良かったね、やっと自由になれたんだね。



10年前の記事のタイトルが、

『ママちゃん、リュック背負って元気にハイキング』

なのは、
そんな理由です。


Matulikomatulika33 at 14:11│